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人類はどこに行くのか

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    今回の記事はこれからの人類の文化がどのような方向に向かっていくかという長期的な予測である。

    これは100年単位での人類の行く末を明らかにするもので、人類にとって大きな価値のあるものになるでしょう。

    この記事で対象とするものは西洋から生まれた現代思想であり、その歴史的、運動的な構造から、その未来を予測するものだ。

    結論から申し上げると、西洋現代思想は「微分」と「反正統化」へと向かっていく。


    第1章 西洋現代思想の内部構造

     

    まず、西洋現代思想を定義する。

    ルネッサンス、宗教改革を経て西洋では人間の理性で社会、国家を認識し、分析し、その中で生きる人間の幸福を増進させることができるという思想が起こってきた。現在も私達はその中にいる。

     

    具体的には「人間が自由であるべきだ」という自由主義や「人間が平等であるべきだ」という思想や、「健康で文化的な最低限度の生活」という人権主義、共産主義、ファシズム、社会主義、そして資本主義も大きくはその西洋現代思想の範疇にあるものだ。

    まずは、この西洋現代思想が、どのような構造をしているかを見ていこう。
    副島隆彦氏の研究では、西洋現代思想を法思想、政治思想から見て以下のような各派閥に分類している。

     

    「現代アメリカ政治思想の大研究」副島隆彦著より参考

    http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:28

     

    まず、最も原型になるものは自然法派(Natural Law)だ。

    エドモンド・バークに代表されるバーキアンと表されることもある。

     

    世の中には神様が決めた守るべき法というものがあって、それに従うことが、より良き社会を築くことになるという思想だ。
    ただ、この神が定めた法なるものは、未だに人間に明らかになったことはなく、それを歴史的な伝統の中で少しずつ探求して明示していくということが人間に与えられた使命となる。伝統を重視し変革を嫌う。必要な変革な慎重に斬新的に行っていくというのが自然法派の態度だ。

     

    この自然法派を「微分」する。「微分」といっても厳密に数学的な意味での「微分」ではない。数学的な「微分」は、ある変数に対して、その変化率を出すことをいう。例えば距離を時間で微分すると速度になる。速度をもう一回、微分すると加速度になる。

    これを数学的な意味での「微分」と表現するが、この西洋現代思想での「微分」は、これほど厳密なものではない。

     

    副島隆彦氏の研究では「微分」とは、ある政治思想が、ある方向性に向かって、その根本を変えるほどに進んでしまったときに、それを「微分」と表現する。

    自然法派を「微分」すると自然権派(Natural Rights)になる。この派を代表するジョン・ロックからロッキアンと表されることもある。

     

    「微分」の方向は神様が人間や生物に与えていると定めている権利を拡大認識していくものだ。

    自然法派が神様が法を定めているという立場なのと対照的に、自然権派は神様は生物にある特定の権利を与えていると認識することが、その特徴となる。
    自然の中で生きている動物達も自由に生き抜いていくことは当然、許されている。

    いわんや人間ならば当然、そういった権利を持つことは自然なことだと認識するのだ。
    自己を保存していく権利、具体的には生きていく権利や、自由に移動して生き抜いていく権利や、人間として生き抜いていくために、その財産を保持していく権利が挙げられる。アメリカ独立革命やフランス革命のもとになった思想でもある。

     

    自然権派を「微分」すると人権派(Human Rights)になる。

    自然権派が定めた人間が生まれつき持っている権利を大きく拡大したものが人権派だ。

    日本国憲法は人権派の思想で出来上がっている。

    人間は、ただ生きているだけではなく、ある程度以上の生活をする権利を持っているとするのが人権派の思想になる。

     

    人権派を「微分」すると動物権派(Animal Rights)になる。

    捕鯨反対のシーシェパードや動物の毛皮反対派のような人達も、この中に入る。
    しかし、分類上は人間の中のマイノリティの権利擁護派も、この中に入る。

    少数民族や女性を動物と一緒にするのかという議論があるかと思うが、副島氏の分類では人権派の過激派が動物権派となる。

    これが西洋現代思想の「微分」の方向だ。

     

    もう一つの西洋現代思想の方向性が「反正統化」だ。

    副島氏の分類でも、この方向は示されているが、「反正統化」という言葉は與那覇潤氏の研究の「反正統主義」によっている。

     

    「知性は死なない −平成の鬱をこえて」與那覇潤著より参考

     

    自然法派を「反正統化」すると人定法派(Positive Law)になる。こちらは自然法派の思想の根本「神の定めた法」なるものを信じない人達だ。神が定めた法などは存在しない。法は全て、その時代の人間の側の権力構造によって決められるものでしかない。神の存在を使って法の正統性を主張することは間違っているという主張だ。

     

    この主張は理想もへったくれもないものだが、これが行き過ぎると、一時の権力者が定めた法が、法として正しいということになり、ファシズムやナチズムを支持するようになる。現在ではアメリカの草の根の保守主義者であるリバータリアンが人定法派になる。

     

    このように西洋現代思想は「微分」と「反正統化」の二方向にむかって動いていくものなのだ。

     


    第2章 西洋現代思想への道筋

     

    次には西洋現代思想に至るまで西洋思想の構造を見てみよう。

    前章で西洋現代思想内部の「微分」と「反正統化」の構造を見てきた。

    そして西洋現代思想全体もある思想の「微分」で生じてきた思想なのだ。


    西洋現代思想の源となったもの、それはトマス・アクィナスに代表されるキリスト教の神と世界や人間との関係を人間の理性で解き明かそうとするキリスト教神学だ。

     

    ある時期までは西洋人は盲目的にキリスト教を信じてきた。

    そして時代が下るにつれ人間の理性の力が強くなっていく。
    その中で神を理性で捉えていこうとする思想が生まれてくる。


    西洋人がそのような思想を持つに至ったのはアリストテレス以来のギリシャ哲学、そして、それを継承したイスラム哲学とユダヤ哲学の影響だ。

     

    ギリシャで生まれた人間の理性を重視する思想は中世の西洋では一時的に衰退するが、その時期はアリストテレスの研究がイスラム社会やユダヤ社会で継承されていた。西洋が理性を忘れていた時期にイスラムやユダヤが理性を保持していたわけだ。

     

    理性によって神様のことを考えていたキリスト教神学が「微分」されると理性によって人間社会を考える西洋現代思想に至るのだ。

     

    それではキリスト教神学は「反正統化」されたのだろうか。

     

    「反正統化」は宗教改革から大きな力をもち西洋思想にビルトインされる。
    キリスト教神学の全盛期から西洋の「反正統化」の動きは遅れることとなった。そしてキリスト教そのものを「反正統化」するには、かなり時間が掛かった。それは現在でも完全になされている訳ではない。結果としてキリスト教神学からの思想の流れは「微分」の方向である西洋現代思想にしか行きつかなかった。

     

    このキリスト教神学と西洋現代思想の関係をよく覚えておいてください。
    今、西洋現代思想の中にいる私達はキリスト教神学をどのように見るだろうか。

     

    現代を生きるものにとって、神の存在や神と人間の関係などというものは真剣に考えるべき課題とはなっていないはずだ。

    近い将来、いや、もはや、そうなっているかもしれないが、理性で社会や国家を改善しようなどという西洋現代思想は、将来の時代の人にとって意味のないものになっていくのだ。

     

    具体的にいえば、自由だとか平等だとかという主張は人間の幸福とは直接関係のないものだと人々が判断するであろう世界が未来にやってくるということだ。

     


    第3章 西洋現代思想からの逃亡

     

    次には行き詰まりを見せる西洋現代思想が「反正統化」されるとどうなるのかということを論じていく。

     

    第1章で説明した西洋現代思想全体が現在では多くの人にとって魅力を失っている。その原因は西洋現代思想の中に内在されているものだが、その原因については次章に譲りたいと思う。

     

    現在の英国のEU離脱やトランプ現象は西洋現代思想に幻滅した大衆運動の一つだ。

    西洋現代思想に幻滅し、それを否定し「反正統化」した思想はどういったものになっていくのだろう。

     

    昨今、世の中でいわれる「反知性主義」とは、この「反正統化」の動きの一部だ。
    「反知性主義」という表現は右の知性の欠けた主張や行動に対して表されるものだ。

    しかし実際には左にも多くの「反知性主義」の主張や行動がある。

    右も左も同じく「反知性主義」に陥りやすくなっている現代は、まさしく西洋現代思想が「反正統化」されている時代なのだと言える。

     

    西洋現代思想に対する「反正統化」の動きは、まだ始まったばかりで、今後の行く末がどうなるのかは分からない部分がたくさんある。
    しかし、この動きは西洋現代思想の根本である人間の理性の働きに疑問を持つものになりそうだ。

    西洋現代思想は人間の理性の可能性を信じ、それを駆使することで社会全体に幸せをもたらすことができるという思想だ。

     

    人間の理性を信じるからこそ民主政体という多くの人々の決定が社会の選択として正しいという政治システムを採用しているわけだし、人間の理性がどこまでも拡大することを信じているからこそ、未来が過去そして現在よりも素晴らしくならなければならないという進歩主義に寄り添って生きているわけだ。

     

    西洋現代思想に対する「反正統化」は、この人間の理性の否定を根本とするものになりそうだ。

     

    人間とはそれほど素晴らしい存在ではない。

    素晴らしい人もいるかもしれないが、ほとんどの人達は凡庸なものにすぎない。
    凡庸なものに教育をほどこしても、その多くは凡庸なまま終わっていく。
    だから世の中のほとんどの人は理性や知性とは程遠いところで考え発言し行動する。

     

    敢えて、この「反正統化」を表現するなら、こんな感じになる。

     

    この「理性・知性の否定」に意味がないわけではない。

    今まで正統とされていた考えの真実をあぶりだす側面は確かにある。

    但し、その根本が「理性・知性の否定」にあるなら、多くのマイナス点も生じてくる。

     

    例えば、トランプが大統領選挙の際にヒラリークリントンがIS(イスラム国)の創始者であると発言した。

    今の正統とされている考えはIS(イスラム国)はイスラム教の原理主義者が集まってシリアやイラクでイスラム原理に沿った国家を作ろうとしている勢力で欧米もIS(イスラム国)と戦っているというものだ。

     

    ところが実際にはアメリカが中東をコントロールするためにIS(イスラム国)を創始し、資金援助や武器の供与を行っていたという記事はたくさんある。


    それらの全てがフェイクニュースだとするには無理があるものがある。ヒラリークリントンには公式になっているものとは違って、かなり悪辣な行動をしているという情報も伝わっている。

     

    トランプの発言をフェイクニュースだと片付けるしまうのは、正統派の方こそ「理性・知性の否定」に陥っているといえる。

    但し、トランプの支持者も「理性・知性の否定」に陥っている側面も多々ある。

    例えばQアノンという政府内部の情報リーク者の件ではトランプ支持者の「理性・知性の否定」が見えてくる。

     

    Qアノンとは、アメリカの掲示板に政府内部からであろう情報を書きこんでいる匿名者だ。個人であるか団体であるかは分かっていない。

     

    その書き込みではトランプが大統領になっても政府内部にはトランプに反抗する勢力がいて、彼らは悪魔崇拝者であったり、小児性愛者であったり、異星人を隠していたりと、かなり無茶なことが書かれている。

    トランプ支持者にとってはトランプ大統領は政府内部のディープステイトという実際のアメリカを動かしている悪辣な集団と戦う正義の味方なのだ。

    ホワイトハウス内でイエスキリストに祝福されているトランプ大統領の絵を見たことがあるでしょうか。

    この画像はトランプの次女が投降したものですが、一部の狂信的なトランプ支持者の気持ちをよく表しているものだ。

    彼らにとってはドナルド・トランプこそが救世主なのだ。

     

    より理性を働かした思考を使うなら、トランプ大統領とディープステイトとの戦いは権力闘争で、もしディープステイトが悪辣だとしたら、トランプ大統領も同じくらい悪辣で、決して正邪の戦いではないと判断できる。

    恐らくQアノンもトランプ政権が選挙対策で行っているもので、自分に都合のよい情報を流して支持者を増やす目的のものだろう。

    新旧の権力闘争で新しいぶんだけトランプ大統領の方が悪辣ではないといえるかもしれないが、もし、トランプがアメリカに自分の勢力を築くなら、今のディープステイトと同じようになっていくだろう。

     

    この「反正統化」は正統派勢力も反正統派勢力も共に「理性・知性の否定」に進んでいくだろう。

     

    そして最終的にどうなっていくか。

    おそらくは社会や国の問題を人間が理性でもって解決するということがなくなっていくのではないか。

    社会構造がAIによって解析され、今までのデーターによる結果が入力されると様々な政策がAIのプログラムの中の数字の変更だけになってくるだろう。

    国会での議論がコンピューターの中のシュミレーションに変わっていき、その成果はどうであれ、大衆が政治家による議論よりもAIを信頼する時代が、この「反正統化」の行き着く先だ。

     

    中国で行われている信用スコアによる国民の管理も「反正統化」の到着地点の一つであるかもしれない。

    中国では既に国民の様々な分野での行動を監視し、それによって信用スコアを増減し、その信用スコアによって公的なものも含めた多くのサービスが受けにくくなったり、受けやすくなったりするということが行われている。結婚相手に信用スコアを尋ねるということも行われ始めているようだ。この管理の範囲は拡大することはあっても縮小することはないだろう。


    国民は法律で禁止されたこと以外は何でもできるという世界ではなく、政府が決めた枠組みの中でしか国民は生きることを許されない。私にとっては悪夢でしかないものですが、「反正統化」はここまで行くかもしれない。

     

    それでは人間の知性が生き残る場所はないのだろうか。現在の多くの知識人にとってはこれは大きな問題だ。

    自分達が理想に掲げてきて自らの最大のアドバンテージである理性・知性の価値が消滅していく。知識人にとってはこれほどの悪夢はない。

    そして私が知る限りでは理性・知性の否定ともいえる時代の流れの中にサバイバル地を見つけることができた知識人はいない。

     

    人間の理性・知性は消えていくしかないのだろうか。私はそうは思わない。

    まだ人類史の中では、はっきりとしたものになっていませんが人間の理性・知性が生き残る場所は必ずある。

    しかし、そのサバイバル地を見つけるためには西洋現代思想がどこで間違えたのかを明らかにすることが必要だ。

     


    第4章 西洋現代思想はどこで間違えたのか

     

    本章では、なぜ西洋現代思想が、その内部の「微分」や「反正統化」も限界に達し、「理性・知性の否定」という西洋現代思想に対する「反正統化」が生まれてきたのか、その要因を西洋現代思想の内部構造に探る。

     

    一言でいえば、その失敗は西洋現代思想は言語という記号による知性・理性に偏重し、パフォーマンスの四層構造を理解してこなかったからだ。

     

    パフォーマンスの四層構造とは何だろうか。

    これは高岡英雄氏の「身体意識」研究を基にして私が提唱しているもので、人類の行う全てのパフォーマンスは四層の構造を持っているというものだ。

    四層とは「技」「動き」「身体意識」「氣エネルギー」であり、図のように下層構造が上層構造を支えるものだ。

     

    合気道で説明する。

    「技」とは実際に相手に作用させる技術で入身投げといった具体的な技術や言語化はされていないが相手をコントロールする技術などが含まれる。


    その「技」を支えているのが「動き」だ。

    「動き」とは「技」の構成要素で、「技」よりも単純な動作を示す。

    立ち方、歩き方、腕の上げ方、下げ方等々が「動作」に含まれる。

    より良い「動作」がなければ、より良い「技」はできない。

     

    良い「動作」を支えているものは良い「身体意識」だ。

    「身体意識」とは「臍下丹田」や「正中線」といったものに代表されるような身体と意識のまたがる層に点や線や面や立体が描かれたものだ。この「身体意識」が良い「動き」を支えている。


    この「身体意識」を支えているものは「氣エネルギー」だ。

    この根源的な層が「身体意識」を作る道具ともなって人間のパフォーマンスを大本から支えているのだ。

     

    そして西洋現代思想という思想もスポーツや楽器演奏や研究論文と同じようにパフォーマンスの四層構造を持っている。

     

    例えば平等主義という思想がある。

    ここで平等主義という武道でいうところの形が存在して、それを志す人々が平等主義というものが要求する思考や精神構造や身体構造を作り上げる選手と考えればどうだろう。

     

    平等主義者の平等主義パフォーマンスとはサッカー選手のサッカーのパフォーマンスと本質的に同じ構造をもつものだといえる。

    サッカー選手とは大きく異なるのはサッカーならば個々人のパフォーマンスの優劣が比較的、明確に判明するのに対して平等主義者の場合は、そのパフォーマンスの優劣を比べるのが難しいということだけだ。
    ここでも判定が難しいというだけで優劣が存在しないということではない。

    ○○主義のパフォーマンスというものもサッカー選手のパフォーマンスと同じように考えることができるのだ。

     

    西洋現代思想の最大の間違いは最も表面的な「技」の部分を多くの人に啓蒙するだけで世の中の人の西洋現代思想のパフォーマンスが向上していって、最終的に全ての人達の○○主義のパフォーマンスが、ある一定以上に向上していくと安易に想定してしまったことにある。

     

    ○○主義を世の中で支配的な思想にするには、世の中の大部分の人達の○○主義のパフォーマンスがある一定以上にならなければ不可能なことだ。
    ところが○○主義の先導者達は実際には表面定な「技」の部分「黒人もアジア人も差別してはいけません」「男女によって扱いを変えてはいけません」といったルールの提示のみによって、自らの理想を成し遂げようとした。

     

    例えば、「人種差別をしない」という「技」を成し遂げるには、あらゆる人に接してコミュニケーションをとる場合に、どういった精神状態、身体状態を作り上げるという「動き」の部分の向上が不可欠だ。

    そして「動き」の向上には、より良い「身体意識」、人と人との間の身体意識構造や、人を認識する際の身体意識構造が必要になってくる。

     

    ○○主義の先導者達も、この構造を理解せず、人々を啓蒙できなかったことが、まず第1の間違いだ。


    そして、これほどの奥深い部分にまで影響を及ぼさねばならない○○主義の啓蒙というものが、大多数の人にとっては不可能であるということを理解できなかったこと。これが第2の間違いだ。

     

    アメリカの古い映画で日頃から人種差別撤廃を主張している進歩主義者の白人の父親が、娘が黒人の彼氏を家に連れて来るという状態に戸惑い、葛藤するというものがあった。


    父親は日頃の自分の主張では「黒人を差別しない」ということを表現している。

    しかし自分の娘の彼氏、もしかしたら自分の家族になるかもしれない人が黒人であるという事実は、なかなか受け入れられないものだった。

     

    この映画が表しているものは、平等主義者が表面上の「技」のみのパフォーマンスを伸ばしていて、より下層の構造のパフォーマンスを伸ばしてこなかったというアンバランスな構造だ。そして、そのアンバランスさを日頃はエリートで完璧だと思っている人こそが内在しているという批判なのだ。

     

    自分達は進歩主義的な主張はしないけれど、綺麗に取り繕っているお前だって、本質的なところは俺達と変わらないじゃないか。

    前章であげたような西洋現代思想に対する「反正統化」、「反知性主義」が批判するものも、このアンバランス構造だ。

     

    西洋現代思想がどこで間違えたのだろうか。

     

    まずは、それを先導する者たちも、その下層構造のパフォーマンスを伸ばしてこなかったこと。
    そして、大衆に向けても、その下層構造のパフォーマンスも含めた啓蒙活動を行ってこなかったこと。

    最期にすごくシビアな見方をすれば、西洋現代思想というものは一般大衆の多くが身につけれるようなものではないということ。

     

    それでは西洋現代思想がサバイバルするには何が必要か。
    少なくとも百年単位においてエリート層が西洋現代思想を下部構造から身につけ、そのトレーニングメソッドを整備する。

    その上で一般大衆への啓蒙を行う。

     

    こんなことは、とても不可能な話で西洋現代思想そのものがサバイバルするということはあり得ないと私は思う。

     

    それでは西洋現代思想の滅亡とともに人類の知性・理性も滅亡してしまうのだろうか。
    私は人類の知性・理性が生き残る場所はまだまだ存在すると思う。

     

    それはどこに存在するのか。それは西洋現代思想を「微分」するしかないのだ。

     


    第5章 人類の知性・理性が生き残る場所 知識人よ西洋現代思想を「微分」して脱出せよ

     

    前章では西洋現代思想が表面的な「技」のレベルでの上達しか目指してこなかったお陰で大衆層にまで、それが十分に伝わることはなかったという議論をしてきた。

     

    結論を言えば、大きな集団で本質的な上達を成し遂げることは、ほとんど不可能であるということだす。

    本質的な層からの社会変革などというものはどうせ出来はしない。この確信が私達の世の中の主流になりつつある。

     

    未来の世界では社会全体の変革などあり得ない。

    それを目指してきた西洋現代思想は、かってのキリスト教神学と同じようになっていくのだ。

     

    第2章での議論を思い出してください。

    私たちのいる西洋現代思想の世界から見れば神の存在や人間との関わりを理性で解こうとしたキリスト教神学は全く意味のないものだ。
    仮にその分野の学問があったとしても、ごく一部のマニアが行っているもので社会全体としてはほとんど影響力をもたない。
    西洋現代思想の世界の中のキリスト教神学の価値などそんなものだ。

    それと同じ扱いを今度はポスト西洋現代思想の世界で西洋現代思想がされるのだ。

     

    人間の大多数はほとんど太古から変わらず、お釈迦様が説いた以上の人間の安寧は現在でも見つかってはいない。

    現代人はスマホを持ちテクノロジーとしては圧倒的な進歩を手に入れましたが、本質的な点で古代人より何が進歩したというのだろうか。

    この冷徹な論理が通底する世の中、それこそがポスト西洋現代思想の世界なのだ。

     

    それでは人類が本質的に進歩することなどないのでしょうか。私はそうは思わない。

    大きな集団が丸ごと進歩するなどということはあり得ないが、個人や比較的小さな集団のパフォーマンスを進歩させることは、いくらでも出来ると思う。

     

    社会全体を変えることは不可能だ。

    しかし個人やNPOや企業といった団体を進歩に向かって変革することは、いくらでも可能だ。


    国全体を変えることは不可能だろう。

    但し、その執行部や地方の組織といった非常に小さな範囲であれば、その変革は比較的、容易なことだ。

     

    今後は知識人は社会や国家全体を変革するといった方法から撤退し、個人や団体の変革に勢力をつぎ込むべきだ。
    そして、社会の中の歯車に過ぎない個人や団体をどのように動かすことで、望むべき社会に近付けていくのかということを目指すべきだ。

     

    一つの歯車も最適な位置に配置すれば一つの歯車以上の働きをすることだろう。

    そして、また、その変革がより大きな歯車となって社会を動かしていく。
    この繰り返しを何百年単位で繰り返していくという継続性をもって、初めて人類は進歩の歩みを少しずつ進めることができるのだ。

     

    我田引水になりますが、そのためには私の提唱しているパフォーマンスの四層構造による上達こそが重要になってくる。

     

    多分、ここで社会の変革よりも個人や団体の変革を目指すという態度は社会の二極化を拡大していくのだろう。

    明確な目的と上達のためのプログラムをもって継続的に努力をするものは大きな果実を手に入れるだろうが、社会の中の多くの人は、その恩恵を受けることはない。

     

    西洋現代思想を「微分」したものと「反正統化」したもので格差が圧倒的に拡がる。

    ポスト西洋現代思想の時代はそんな世の中になるのだ。

     


    第6章 西洋から東洋へ 思想は移っていくのか

     

    前章では西洋現代思想を「微分」した世界の具体像について書いてきた。

    村山節氏の提唱する文明法則史学では現在は世の中の潮流は大きく西洋から東洋へ動いていく時代だという話がある。

    http://bunmeihousoku.com/

     

    確かに西洋から東洋へという視点で西洋現代思想とポスト西洋現代思想を見ると興味深いものが見えてくる。

     

    私見ですが、西洋の思想は西洋の人口が東洋よりも比較的少数で推移したことから、人間の価値を過大評価する傾向がある。

     

    例えば産業革命は少ない労働力を機械によって補うものだった。これは労働者の価値を大きく評価するものだ。
    労働者が過大に存在するならば、その価値をマイナス評価して、機械導入ではなく、より多くの労働力を集約するという方向に舵を切るはずだ。ところが労働者が限られていたからこそ、機械力によって生産活動を行うという産業革命が起こったのだ。

     

    民主政体もより多くの国民の知恵を結集することが、より良い結果をもたらすことが出来るという思想を基にしている。
    こちらも大衆の価値を大きく評価するものだ。

     

    反対に東洋では、人口が多いことから一般大衆というものは愚かであり、それを一部分の賢者が導かねばならないという考えの方に親和性がある。

    西洋現代思想からポスト西洋現代思想への移り変わりは、思想史的にみても、西洋から東洋への移り変わりを示しているような気がする。
    私達の将来ではポスト西洋現代思想において、ゆっくりと西洋思想は東洋思想にと移っていくのだ。

     


    最後に

     

    ここまでお読みいただいたことに御礼を申し上げたい。

    数日間で一気に書いたもので非常に分かりづらい点も多々あるかと思うが、ご容赦いただきたい。
    ただ、本記事がもっている本質的な内容は大きな価値を人類にもたらすのではないかと自負している。

     

    西洋現代思想が、これからどこへ行くのか。人間の理性・知性は生き残ることができるのか。

    この問いに、一定の答えを出すことができたのだと思う。


    ここまで私の駄文に辛抱強くお付き合いなされた方の知性は本当に素晴らしいものがあると思う。
    自分とは異なる他人の論理を自分の論理構成ではない方法で理解する。この作業こそが本当に知的なものだ。

    知的であるということは学歴や職歴などとは関係がない。
    人間の理性・知性というものに価値を見出しているあなたに本記事を送る。
    あなたの未来を切り開くのに本記事がお役に立てるのならば、これほどうれしいことはないだろう。

     

    2019年1月3日        森 智洋
     


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